2012年7月11日水曜日

自らの目で

副実行委員長のせーやです。


今日は『なんで仙台に集まるの??』ということについて、俺なりの思いを書きたいと思います。


俺は被災地仙台に住んでいます。
といっても幸い内陸部、今回の青年大会の会場である秋保というところの近くなので地震の影響は受けましたが津波の被害は受けていませんし、放射能の問題もメディアで報道されている地域と比べるとほとんど問題ないと言えるところです。

地震が起こった後の何日間かはライフラインが絶たれメディアに触れる手段がほとんどなかったために、被災地の外にいる方々よりも被災地の状況がわからないという状態でした。

外の情報がわかる唯一の手段とも言えたラジオから流れる沿岸部の光景も、音声のみの情景描写だったために、また、非現実的なものと思える内容だったために理解することができませんでした。



身の回りが落ち着きを取り戻し始めたのは一月近く経ってからでした。

4月に入っていましたが大学の入学式は中止、授業も5月のゴールデンウィーク明けまでないと知らされやることがなかった俺は、教会で行っていた東日本大震災支援室(現いっしょに歩こう!プロジェクト)で人手が足りていないということだったのでボランティアをすることにしました。

この頃には、テレビやインターネットで津波により甚大な被害をこうむっている地域があることを知っていましたが、初めてボランティアに参加した頃は被害の激しい被災地の支援をしたいという気持ちよりも、学校もなく電車も動いていないのでやることがないから、という気持ちが大きかったのではないかと思います。


そして支援物資を持ち、初めて津波により被災した地域を訪れました。

本当に衝撃的でした。

山を抜けるとそこから港まで何もないんです。

あるのは流された家の土台と道路のアスファルトのみでした。

言葉にできない恐ろしさを感じました。


俺の住んでいる地域では地震の後2,3日は自宅にある食材でなんとか過ごしましたが、その後は近所のスーパーが開いたので朝早くから並び、購入数に制限があるものの、食材を手に入れることができました。

しかしその地域では商店も、そして自宅さえも跡形もなく消えていました。

同じ宮城県でもここまで差があるのかと、とてつもない悲しさ、そして惨さが込み上げてきました。


被災地を訪れた次の日からは毎日ボランティアを行いました。

しかしそれまでの『時間があったから』という気持ちではなく、『少しでもあの地域に住んでいた方々が元気を取り戻してくれれば』という気持ちだったと思います。

たまには遠くまで行って帰ってくるのが遅くなり、しかし次の日は朝早くから支援活動という日もあり確かに大変でしたが、それ以上に大変な生活を送っている人がいることを考えるとそこまで苦ではなかったです。

その頃は無我夢中で行っていましたが、今思えばとにかく『自分の行いで少しでも辛い生活に光が見えたら』と考えていたのかもしれません。


こう書いていくと『偽善者かよ』と思われる方がいるかもしれません。

そもそもボランティア=偽善者と思われている方もいるかもしれません。

実は俺自身少しそう思っていたところがあるし、ましてや自分が友達との約束を断ってまで誰かのために働くなんて思っていませんでした。

しかし、テレビやインターネットを通してではなく『自分の目』で見たからこそできたことなんではないかと思います。


今回の青年大会の中に被災地を訪問するプログラムがあります。

まだ一度も『自分の目』で被災地を見たことがない方は、是非その場でなにが起きたのか、またその場に住んでいた方々の気持ち、そして自分にはなにができるのかということなどを自分なりに考えながら被災地を訪問し、現地の人々に出会っていただければと思います。


2011年4月の宮城県 南三陸町志津川


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